どもども。「えーてる」です。
私は普段旅行(要出典)を数多くしており、ブログになるネタは腐るほど持ち合わせているのだが、なかなか食指が動かず現在に至る。今回、ブログを書こうと思ったのは、かなりレアな体験であったこと、Twitterで記述するにはとても収まりきらないと感じたためである。拙い文章になるとは思うが、見てくれたら幸いである。
ちなみにTwitterは下記のアカウントである。Twitterから見に来てくれた方が殆どだとは思うが一応。
さて本題へ。今回ブログとして書くのは、長崎県は五島列島に浮かぶ小さな島「六島(むしま)」に訪問した際のレポートである。
この回では、六島に上陸するまでの中通島内での探索で得られたものについて記述しようと思う。未だに人口一人の島に上陸してなくてごめん。
主に間伏(まぶし)という集落について述べる回となる。
前回のブログ、人口一人の島に行った話②~中通島~の続き。
最初から見たい方はこちら
若松島
実は「中通島内での探索」と言っているが、厳密には中通島+若松島内での探索、が正しい。 そしてメインとなる記述は“間伏郷”という集落となる。
そしてここに来て初出しワードの若松島。
「お前誰やねん!」というツッコミが来ること請け合い、説明しよう。
中通島の南部、岩瀬浦地区と同じ緯度、西の方に大きな橋がある。そしてその西部には、中通島と橋のみで繋がっている島がある。これが若松島だ。
平成の大合併以前は、南松浦郡若松町。現在は新上五島町ではあるが、この島も架橋するまでは船でしか訪れられなかったのである。
若松大橋
中通島と若松島を結ぶ橋の名前だ。同行者であった、ななしさんが若松島のとある集落に訪れたいとのことだったので、渡る運びとなった。
どうやら平成3年(1991年)竣工。架橋して既に30年は超えているが、看板の案内を見るに、若松町は中通島内にも土地を持っていたようだ。
若松瀬戸は、現在でも多くの船が往来する。私が五島列島に訪れた際に乗ってきた船、フェリー太古もここを通るのだ。
橋に精通している人間ではないので詳しいことはわからないが、実に立派な橋だ。全長522mのトラス橋。風光明媚で、近隣の小島もよく見えた。
間伏郷
若松島の真ん中あたりにある間伏(まぶし)という集落へと足を運ばせた。ななしさん(旅の同行者)はどうやら、五島列島最大の島、福江島にも間伏郷という地名があるらしく、気になったようであった。
郵便局もない集落で、かなり小さい。観光客など誰も寄り付かなそうな狭き道を進み、集落を目指した。すれ違った車に、わナンバーは二度見されてしまうだろう。
本当に集落があるのか半信半疑であったが、集落を発見。しかし集落と呼べるほど、人が居る雰囲気ではなかった。
集落の入り口に神社があったので、チラ見しに。
頭子神社
地図にも記載されていた鳥居マーク、神社だ。
少し違和感を感じないだろうか?
そう、鳥居にしては異様に低いのだ。背の高い人であれば、頭をぶつけてしまうほど。
頭をごっつん子する神社、だから頭子神社なのかな?
この答えは、予算の都合らしい。昭和末期時代に到来した台風により、鳥居が倒れ、その後立て直しを行いたかったものの、少し低くなったんだとか。
海が澄んでいて綺麗。人々は、光に反射して我々の目に映る海の色が、緑がかったブルーに近いと「映える」ので、沖縄の方の南の海を好む傾向にあるが、ここも十二分に綺麗である。五島列島の観光は、海よりも教会だと思うので、観光資源が確立できているのはそれはそれでいいことだと思うが。
話が逸れたが、間伏郷の入口に着いたところで、こんな看板を発見。
看板
見にくいので要約すると、五島市福江の浄土宗宗念寺に白濱家の墓があり、ご先祖さまは肥前国松浦の武士団松浦党の志佐氏一族。落人として若松島に定住するようになったようだ。
そしてどうやら、この集落にある曹洞宗神護寺の近くの光石海岸という場所に、白濱一族のお墓があるとのこと。画像が載っているが、どこにあるかは記されていない。
まあ歩いてれば見つけられるかな、と思い集落内を進む。
空き家、更地が多く、寂れてしまっている。その中で神護寺は非常に立派であった。
神護寺
じんごじ、と読むようだ。
明らかに近年建て替えたような綺麗具合。住職の方にお話を聞こうとしてみたが、何やら忙しそうな様子。後に判明したのだが、ここの神護寺は位の高い寺であったようだ。減築改築という形であったようだが、建て替えたのは事実なようだ。
第一村人発見
餅は餅屋というように、その地区のことは、その地区に住んでいる人がよく知っているだろう。我々は庭で洗濯物を干していたお爺さんに接触した。
お爺さんは長らくこの地で暮らしているそう。ご厚意でちょこっと案内をしてくれた。
間伏郷は現在3世帯、7人。人口一桁も居ない限界集落であった。聞けば嘗ては学校もあったとか。俄には信じ難かった。
右の写真は土が掘り返した跡、これはイノシシによるもの。近年、五島列島に限らず地方の自然と密接な集落は、獣害に悩まされている。捕まえる装置を置いておいて、罠にかかったら専門家に連絡、そして確保なり駆除なり。現状一網打尽にする策はなく、こうした罠を至る場所に配置して、罠にかかるのを待つしか無い。猪突猛進と言うように、一般人が真っ向から止めようにも歯が立たないのだ。
お墓
先程述べたこのお墓は、どうやら集落から少し外れた場所にあるようで、お爺さんに案内してもらった。集落の端の道からさらに海沿いに道なき道を進んで発見。海岸が少し湾曲しているため、集落から直接見えることはなく、言われないと気づけないような場所であった。
先に述べたように、白濱家(落人)の墓であった。言われなきゃこの場所など気づけまい。その場所に行くまでの道を少し舗装とかしてもいいのに...
病院
道中に見つけた、立派なお屋敷。でも家っぽくもない不思議な建物があった。これの詳細を聞くと、どうやらかつては集落の診療所であったらしい。この様子からして20年以上前の話であろう。かなり荒廃している。中には入らなかったが、廃墟オタクが好きそうな、医療器具や薬品などが置き去りにでもなっていたりするのだろうか?知る由もないが。
学校跡
先ほど、嘗ては学校があった、と述べた。場所は第一村人から情報を得ていたので、一応向かってみることに。航空写真を眺めても、本当にあったのか俄には信じ難い。
集落の入口の道から坂を登ること数百メートルほど行くと、拓けた場所に出た。
流石に自然に還っているかな?と思いきや、むむ??何やら建物があった形跡があるではないか。
調べたところによると、若松町立間伏小学校という名前で、1997(h9)年に閉校。同じく若松町内にあった他の日島小学校、神部小学校と統合し、若松町立若松中央小学校が開校したようだ。こちらは現在も新上五島町立若松中央小学校として現存(2023年現在)している。
何も建物の基礎の跡がない場所が運動場だと推察できる。基礎がある場所でも真ん中から木が生えてしまっているところが多く、見通しも悪かった。
大きな何らかの建物があったんだろうな、とはなるが、学校だと知らなければただの施設に見えてしまうだろう。「らしさ」は時の流れと共に既に薄れていた。
その中でも分かるものをななしさんが発見。
おそらくこれは手洗い場であろう。運動場で身体を動かしたのち、当時の子どもたちはここで手を洗ったに違いない。パッとわかるものを発見できて良かった。自分でも学校跡だと腑に落ちることが出来た気がする。
他にも、焼却炉や池と言った人工物を確認できた。
1997年に閉校したというのに、メインとなる建物が残骸程度にしか見当たらなかった故、ある程度は解体したのかな?と思える。
今は3世帯、7人しか居ない限界集落にも、学校はあったのだ。
段々畑
だんだんばたけ、いざ漢字で書いてみるとなかなかイカツイ印象だが、平地が少ない集落で農業をする際には、メジャーな事例である。これが水田だと「棚田」とか言ったりする。そしてこれを集落から見下ろせる場合、「千枚田(せんまいだ)」とか言ったりする。明日使えるかもしれない豆知識。
かつてはこの集落でも行われていたようで、
道路脇の階段を登ると、ある程度の平地があり、各区域で耕していたのが窺える。これが何層にもなっているのだ。平地の少ない土地では農作業をするだけで一苦労。集落から少し離れているため、獣害も多かったことであろう。この集落ではもうこの段々畑は使われていないようであった。木が生い茂り、自然に還っていくだろう。
他にも廃村のような雰囲気を感じ取る材料は余すことなく転がっていた。正直、先は長くない集落かもしれない。
今までに得た間伏郷の集落の情報をまとめると、このようになる。
間伏郷の記述が長くなってしまったが、こんなものだろうか。3世帯7人しかいない集落でも、深掘りしていくとそこには色々な歴史が隠されていたのだ。またネットには載っていない、聞かないとわからない情報というのも多く存在する。第一村人氏の証言が全てとは限らないが、貴重な情報提供、感謝する。
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キリが良いのだがもうちょっとだけ続く。Chu!ブログ初心者でごめん。
そういえばまだ我々は上五島に居たんだった。若松大橋を再度渡り、若松島を出て、中通島へ戻り、人口一人の島(もうメインの内容忘れかけちゃったよ)六島に行くため、津和崎港へ向かう。
その道中、少し道を逸れ、上五島内に残っている旧局舎があるとされる続浜ノ浦郷へ。
...続浜ノ浦郷って何ぃ!?(cv:見取り図盛山)
浜ノ浦郷は無いん?何が続なん?続きがあるん??
続の字の見過ぎでゲシュタルト崩壊してきた...
どうやら上五島内にある石油備蓄の場所となっている島もこの字な様子。一般人は立ち入ることはないだろうが。
浜ノ浦郵便局
そんなこんなで到着。旧局舎は現在の郵便局がある場所よりも奥にあるため、一年半前は気付けなかったが、水色で目立つので、遠目からすぐに気付けた。
ここは昭和時代の郵便局にありがちな「車いすでご来局の方は この呼び出しボタンを 押してお待ちください」という看板があった故、すぐに旧局舎という確信が持てた。今はかつての局長が住んでいたりするのだろうか?この局舎の頃は、集配業務も行っていたようだ。
こうしている間に、気づけば時計は9時の針を差そうとしていた。船が出るのは10時頃。そろそろ我々は津和崎港に向かうことにした。
次回、漸くタイトル回収、人口一人の島、六島へ__________
次の記事ができたらこの下にでも載せるとする。更新ペースが落ちて申し訳ない。
人口一人の島に行った話④ ~六島~ - ether2klyのブログ